ぼくは名古屋市中村区で生まれた。名古屋駅の西、通称「駅裏」である。
現在は新幹線口とも呼ばれ、予備校やカメラ量販店が進出して賑わっている。
さらに西へ向かうと、太閤通り、日吉町、千成通りなど豊臣秀吉にちなんだ地名を通り過ぎ、大門町、名楽町、賑町、寿町、羽衣町といった歓楽街風の町名に至る。
大門町の名からわかる通り、ここはかつて遊郭があった場所だ。名楽町の名も、戦後の赤線時代に「名古屋楽天地」と称していたことによる。
現在、往時を偲べる建物がわずかに残る。目立つのは旅館や特殊浴場の類だが、それも密集しているわけではない。東京の千束(吉原)、岐阜の金津園のような特殊な賑わいは見られない。
中村に遊郭が誕生したのは大正時代。都心にあった大須の旭廓が移転を命じられ、大正8年に中村が代替地に決定。同12年に中村遊郭という名で開業する。最盛時は娼家138件、娼妓2000人を抱え、日本最大の遊郭だった時期もある。
大門が自分の出生地であるのに、これまであまりその歴史に関心を持たずにきた。町のこうした来歴を、あまり深く知りたいと思わなかったからだろう。
ところが先日ある本に出会い、ちょっと関心が傾いた。『敗戦と赤線 ―国策売春の時代』(加藤政洋・光文社新書)である。
“赤線”といってピンと来る世代ではない。青線とか二業地・三業地との違いもよく知らないでいたが、この本のおかげでやっと知識を得ることができた。といっても営業形態の違いなどを知りたかったわけではない。敗戦後、米軍統治下で、なぜそういった売春地帯域が公に存続できたのか、長年の疑問がある程度解けたのである。
一般に、遊郭が最も衰微した時期は戦中であったとされる。享楽産業にたいする規制や、戦時増産体制のための建物供出、従業員の勤労動員などを命じられ事実上営業が不可能になったという。だが本書によれば、その一方で、軍人、工場労働者慰安という目的で残された“部分”があった。そしてそれこそが戦後の公設売春地帯「赤線」を導く根っこになったというのだ。
1957年発行の大阪市民生局『大阪と売春』という報告書から孫引きすれば、
「当時海外へ進出した慰安婦、芸妓、女給が軍協力の下に営業した如く、戦時中内地の遊郭、料亭も軍と協力関係とにあった」
とあるように、娼家側も軍の要請に積極的に応じる形で事業の発展をもくろんでいたことが窺われる。「売春業者自体が金儲けのため、国策に便乗」(『大阪と売春』)したというのである。
東京では、それまで玉の井と亀戸しかなかった私娼街が一挙に増えた。立川、蒲田、亀有、立石、新小岩への慰安所新設を警視庁が認可する。「産業戦士慰安のため」という名目だったという。こうして戦時下に国家管理売春システムが出来上がる。このシステムを戦後そのまま援用し、集団売春地区にあらためて誕生したのが「赤線」ということだ。
戦争に負け、もはやどのような〈戦士〉も存在しない日本に、どうして売春地帯が復活したのか。それは日本人女性の「純潔保護の防波堤」としてだった。そのため、内務省が赤線設置を命じた秘密通牒には「日本人の施設利用は之を禁ずる」の文句が存在する。当初は、外国軍専門にサービスを提供する地区を設け、それをもって「一億の純血を護り以て国体護持」をはかろうという意図があったのだ。
前借金制度で業者に隷属させされ、なおかつ戦時中は国策により戦士慰安を命ぜられた遊郭の女たちは、戦後なお挺身隊としての奉仕を強制されたのである。なんという痛ましい運命か。
「赤線」の名の起こりは、明治期にさかのぼるらしく、管轄の警察署が風俗営業店の密集地域を地図上に赤い線で囲んだことからその名が付いたとされる。しかし一般に「赤線」の名が世間に流通するようになったのは、やはり戦後になってのことであった。娼妓たちは公娼から私娼へとその立場を変えることになったが、それも建前上のことで、赤線は昭和33年の「売春防止法」制定まで、国家公認の売春街として存在しつづけた。
沖縄に行くと必ず立ち寄る店がある。安里にある「東大」というお店で、ここの焼きてびちは絶品。最近はとても有名になってしまい、ふらりと行っても満席で入れなかったりする。
10年ほど前に初めて行った夜、「そんなに骨までテビチをしゃぶる人は珍しい」とあきれらて以来、沖縄滞在中は必ず一度は行くことにしている。今はモノレールの「ゆいれーる 安里駅」で降りればすぐ近くなので便利になった。
ある晩、東大で飲もうと現地の友人を誘いだし、待ち合わせがてら近くの栄町を散策したことがあった。栄町といえば、「ひめゆり学園」(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高女=女師一高女)があったことで有名だ。その跡を偲ぼうと思ったのだ。
路地に入ると旅館が立ち並び、どの家にもうす赤い灯りがともされていた。玄関に腰掛ける女性たちを見ても、一見してあいまい宿とわかる雰囲気だった。
友人に聞くと、ここは戦後の「料亭街」であるという。料亭といっても供出するのは料理ばかりではない、いわゆる特殊飲食店の街であった。
那覇のど真ん中にこのような地区が成立したのは、米軍の「歓楽街設置要請」のためだという。内地では「売春防止法」の施行以来、売春宿はおもに旅館から特殊浴場へと業態転換をしていった。しかしその当時、依然として米軍占領下にあった沖縄は事情が違う。その後、本土復帰に伴って昭和47年に同法が施行となるが、栄町には今なお「特殊婦人」が路傍に立ち、ちょんの間の客を引いているのだ。
沖縄を見れば、戦後日本の抱えてきた問題が、生々しい傷跡として見える。
そう思って沖縄を訪れてきたつもりだが、この光景を目の当たりしたときは、何とも言えない衝撃を受けた。彼女らは挺身隊だと思った。
かつて日本は沖縄を米国に差し出し、沖縄政府は彼女らを米軍に差し出した。その構図は過去のものではない。
敗戦と赤線 (光文社新書)